明治維新の子、創業者井上保三郎

 井上工業の創業者保三郎は明治維新の年に、新町の井上平次郎・ツネ夫妻の次男として生まれました。平次郎は問屋業再興のための町人一揆(御伝馬事件)のリーダーとして入牢し、その後の蚕種製造も失敗して苦境にありましたが、子弟教育に熱心で、保三郎は高崎第一小学校で数学・物理・経済・地理など当時としては先端的な教養を身につけました。
 保三郎が17歳のとき、上野―高崎間の鉄道が開通し、土地の有志が魚市場を開きましたがうまくゆかず、保三郎が東京の魚河岸に出かけて買い付けた荷を高崎で売りさばき魚河岸事業を成功させ、頭角を現しました。
 23歳のとき、近代社会の基盤である鉄道敷設工事、建設業を志し、両毛鉄道桐生線―足利間新設工事を請負い、資金不足や経験不足で苦労しながらも、5ヶ月後に工事を終えました。
 25歳で結婚した保三郎は、材木商と小請負を始め、仕事のかたわら腕のいい御殿大工の棟梁だった祖父から毎晩大工仕事の教えを受けました。
保三郎は信条である「信念と誠心」で人を動かし、30歳になるころには「保さんなら大丈夫」と誰もがお金を貸してくれるようになりました。

矢島市長の社是実現を目指す

 明治33年(1900)に市制が施行され、保三郎は市議に当選し、その後16年間務めました。初代高崎市長に就任した矢島八郎が、明治38年(1905)に「市是」を発表し、一期分として水道敷設、市役所・伝染病院の改築、道路改修、商工業の発展、健全財政の確立、公園地の完成を掲げると、保三郎は事業の中核を市是実現に置きました。
 大事業の剣崎浄水場工事と並行し、教育・文化の基礎づくりに心を砕き、南尋常高等小学校の建設や高崎公園の改修工事も手がけ評価を得ました。

軍の御用商人へ

 県の初代県令(知事)楫取素彦が明治17年(1884)に高崎歩兵十五連隊設置にあたり、郷里山口県から呼んだ児玉平一と姉の結婚を好機に、保三郎は軍の御用商人としての道も開きました。
 児玉は義弟の人柄や力量を見込んで、軍施設の建設を次々に発注し、岩鼻の東京第二陸軍造兵廠の築造工事も任せました。さらに関東の一流業者が競った宇都宮第十四師団新設工事を、若干40歳の保三郎が受注したことで、井上工業の名は関東一円の請負業者の知るところとなりました。

山形県名産の桜桃のルーツ

 明治44年(1911)、保三郎はレンガ造りの山形煙草専売局の工事を請負いました。レンガを現地製造すると、レンガを焼く煙が周囲の桑畑に被害をもたらしたことから農民たちが押しかけ、保三郎は「事業中止には応じられないが、桑を痛めたことはお詫びし弁償します。レンガ焼きが終わったら、私の土地に桜桃を植え村に寄付します」と対応しました。山形煙草製造工場は期日までに竣工し、保三郎が村に贈った桜桃は、村の特産物となり今も財政に寄与し続けています。

昭和の飛躍、相次ぐ大工事

 紙製造、製粉、製糸、紡績の4業種が高崎の立地と経済条件に合うと見込んだ保三郎は、数年の間にその分野の企業を創業する一方、主事業である建設事業は益々公益性を高め、高崎市公会堂、高崎専売局煙草製造工場、倉賀野尋常高等小学校など、近代都市高崎の基盤を形成する公益性の高い事業を手がけました。
 昭和4年(1929)、個人経営から株式会社となった井上工業は、群馬会館の建設に取組み、その美しさや堅牢さが高い評価を受けました。また、初めてとなる大土木事業、藤岡市の三名川貯水池築造にも取組み3年後に竣工しました。そのほか大蔵省発注の水産試験場化学及び製造試験室、農林省蚕業試験場島原蚕種製造所事務室他を受注するなど、東京支店で大胆な官公庁営業を展開しました。

観光商工都市・高崎の建設の一歩

 昭和9年(1934)11月、関東大演習が天皇陛下を迎え乗附練兵場で開かれ、保三郎は単独拝謁を許されました。己を忘れて企業の社会的責任を全うすることに生涯を賭けてきた保三郎は、これを機に観光高崎の建設、高崎歩兵第十五連隊戦没者慰霊供養、国民思想の善導の三つを目的に白衣大観音の建立を決意しました。3年の歳月と多額の建設費を投じ、昭和11年(1936)10月に白衣大観音像は完成。2年後の昭和13年11月に保三郎は満70歳を目前に帰らぬ人となりました。

房一郎の時代へ。芸術文化の開花

 敗戦後の井上工業の復興は、進駐軍工事と官公庁工事で進み、代表的なものに高崎市役所庁舎がありました。
 二代目社長となった保三郎の息子・房一郎はパリに8年ほど留学し、社会芸術思想の洗礼を受けた経験がその後の活動に影響を及ぼしました。
 群馬交響楽団の草創期から18年間、理事長を務めた房一郎は、音楽ホールの建設に着手し、親交のあった世界的建築家アントニン・レイモンドに設計を依頼。市の年間予算の三分の一を投入した大工事で、当時考え得る建築技術の粋を結集し、昭和36年(1961)6月に群馬音楽センターが竣工しました。また、「地方にも美術館を」との信念を持った房一郎は、県立美術館の建設を推進。設計者に磯崎新を推薦し、建築を手がけました。さらに五年後には県立歴史博物館を完成させるなど、井上の経歴書を華々しく飾りました。
 「地域への奉仕」を社是としてきた井上工業。その創設者保三郎は高崎の産業資本家として地元高崎の産業開発に力を尽くし、その後を継いだ房一郎が文化・芸術面で見事な花を咲かせたのでした。

※高崎新聞より引用